役に立つか・立たないか、当たるか・当たらないか~白黒からグレーのあわいを見る

数秘術って、だいたいが「占い」にカテゴライズされます。

で、占いと言うと「当たる・当たらない」という話になってしまうのですが、それは数秘に足先を突っ込み始めた当初から若干の違和感を覚えていました。

(占いは好きなので、もちろん否定しているわけではなく)
私は” 未来を当てたくて”数秘を学んだのではなくて”自分を知りたくて”探求したからです。

かといって、「当たるよ!」と言われたら興味を持つ自分もいるし、目に見えない世界も感じるし、好きです。

大いなる存在を感じているし納得もしているけれど、自分の人生は(人生の流れを受け取りながらも)自分で試行錯誤しながら作っていくのが好き

と感じています。

どっちつかずの自分

  • リアリストではあるし、疑り深くもあるけれど、目に見えない世界もわかる。
    (「信じている」という感覚ではなく、体感しているので、ある意味リアル)
  • 「数秘で幸せになるよ!」とは言わないけれど、自分はたしかに幸せだなと感じる。
  • 「数秘でわかることがたくさんある」とは思うけれど、「わからないこともたくさんある」とも思う。

「白も黒もわかるんだけれど、自分はどっちでもないんだよな」…というような葛藤をずっと抱えてきました。

私は、闇の世界も結構好きなんです。
落ち込んだり、やさぐれたり、嫉妬したりって、すごく人間らしくて愛おしいと思っています。

かといって、毎日死ぬまで闇が続いたらさすがにしんどいし、愛や幸せやキラキラだって好き。
陽の光を浴びるのも好きだけれど、押し入れの暗闇で丸まっているのも好き。そんな感じ。

ふと気づいたのは「私は、“あいだが好き”」ということ。

ダメ人間でもいい

「もっと良くなるよ!」
という言葉に対して、憧れとともに抵抗を感じるのは、「ダメでもいい」という気持ちがあるから。

「凪待ち」という映画のレビューにも書いたんですが、「寛容さ」って許しから始まるんです。

成長を望んだり、促したりするのは人間として自然なこと。
でも、「成長しなきゃいけない」のとはちょっと違う。

そんな気持ちを代弁するかのように、臨床心理士・東畑開人さんの記事がありました。

なんとなく「孤独」を感じている人へ。臨床心理士・東畑開人が説く意外な“居場所の見つけ方”

効率化というのは、そうやって人のダメな部分を憎むことでもあります。でも、それは必然的に自分自身のダメな部分にも向けられます。だからどんどん油断ができなくなる。要は、社会が「ダメ恐怖症」になっているんです。

なんとなく「孤独」を感じている人へ。臨床心理士・東畑開人が説く意外な“居場所の見つけ方”

私は、何かの役に立ちたいと願いつつ、役に立たなかったとしてもお互いの尊厳が尊重されるような存在でありたいなと願っています。

続いて頷いたのが、占星術研究家の鏡リュウジさんの記事。

占星術研究家・鏡リュウジに訊く、なぜ人は占いに惹かれるのか?

占いを素直に信じる古代的な感覚とそれを否定する近代的な感覚が僕のなかでは入り混じっていて……。それで迷っていた時期もあったんです。
でも恐れ多いけれど、心理学者のユングもそうだった。それを知ったときにに恐れ多いけれどユングに親近感を持ち、葛藤を大事にしようと思ったんです。だから今でも葛藤は抱えていますよ。 でもその感覚を捨てちゃうと普通の占い師になっちゃうので。

占星術研究家・鏡リュウジに訊く、なぜ人は占いに惹かれるのか?

当たるのか?当たらないのか?
自分の意思なのか?思い込みなのか?
常に私も葛藤があります。

「葛藤があっていいんだ」「だから生きているんだ」と思っていましたが、やはり第一人者である鏡リュウジさんがそうおっしゃっているのを読んで、なんだかホッとしました。

僕の思っている占いや魔法って、科学じゃないし学問じゃないし、言ってみれば「役に立たないこと」だから好きなんですよ。そこに豊かさがあるというか、役に立たないことを楽しめるっていうのが自由ということだと思うし。

占星術研究家・鏡リュウジに訊く、なぜ人は占いに惹かれるのか?

これって、上記の東畑開人さんの記事にも通じると思うんですよね。

ダメ人間だったり、役に立たなかったりという、
白にも黒にもなれないところを当たり前に受け入れたい。

というより、そもそも私たちは、その「間~あわい~」に生きているんだと思います。

数秘で、白や黒は0ゼロで、無ですから。

人は複雑な世界を、カテゴリに分けて考えないと把握できないんです。「陰陽」とか「男女」とかね。現実は厳密に見るとそんな区別なんかできないわけですが、シンプルな分類体系を想定することで世界が秩序づいて感じられる。
そういうふうにカテゴリ分けをして、一つひとつに意味を与えることで我々は物事を把握しているんです。

占星術研究家・鏡リュウジに訊く、なぜ人は占いに惹かれるのか?

これはリリ数秘術でも伝えたいこと。私は、数秘がすべてだとは思っていないんです。

ただ、世界や自由ってものすごくまっさらで、形のない環境なんです。
なので、そういう中で生きるためには、ある一定の基準やものさしが必要。

例えば「大きい」「重い」「長い」「すごい」という形容詞だけでは、基準値がないから測れない。

基準があって初めて共通認識ができて、「それは自分は大きいと思うよ」とか「重いね」とか言える。

数秘がすべてなのではなくて、まず存在や世界があって、その存在を理解するための手段のひとつが数秘術なんだ、と私は考えています。

数秘術が好きな理由

数秘術はその名の通り「数字」に意味合いや性質が込められたものなので、仕組みや発展形がわかりやすいんですよね。

感覚に頼る部分が少ないというか、割と論理的に判断できる要素が多くて(成り立ち自体は)シンプルなところがすごく好きです。

もちろん、読み解いていくと果てしなく奥深いところも好き。

「当たる・当たらない」とは違う視点で

数秘術が当たらないと言っているわけではなく、違う視点で見ています。

目に見えない流れと、自分のエネルギーが合致するポイントの「手触り」を感じて、生きていく楽しさ

やっぱり、自分が思う以上の存在ってあって、それが運命や使命だとしたら
それを自分の感覚や思考や行動を通じて「あれっ、今めっちゃ手応えあった!」と感じられる瞬間が好きです。

「あっ、これだ!」
と、愛とかエネルギーとか反応とか感謝とかイケてる感じとか、満ち溢れる状態に触れるときがあります。
自分であって自分だけではないというか、境界線がなくて世界と繋がっている感覚になれる、その感触が好き。

別に数秘を知らなくても、その「手触り」を感じるに至る人はたくさんいると思いますが、
私にとっては数秘が非常にわかりやすかったし、なおかつ奥深くて楽しいなと思っています。

「手触り」って、どういうこと?

「手応え」というのが最も近いなと思っていたのですが、
映画「ちはやふる~結び」のなかで「手触り」という台詞として出てきて、「まさに!」と思ったのでここでは”手触り”と記載します。

ちはやふる、未見の方は是非見てみてくださいね。

上の句・下の句・結び、という続き物です。
結びだけでも見れますが、続けてみたほうがわかりやすいです。

これからも、「あわい」を生きていく

私だって、お金持ちになりたいし成功したいし注目されたいし綺麗になりたい。

でも、それとは違うベクトルで「あわい」を生きていきたいなと思っています。

白と黒、幸せと絶望のあいだを行き来しながら、グレーの葛藤とあいまいさのバランスを味わって、感じて、表現していきたい。

(自分もダメ人間であって、ダメ人間である誰かと許し合っていきたい。
ここでいうダメとは、悪いことをするとか堕落をするという直接的な意味ではなくて、不完全ということです。)

あわいの道を歩んでいく。
成功やお金や幸せは、その副産物的なものなのかな、と思います。

”役に立たないこと”ってエンターテイメント (娯楽)

役に立たない=余分なこと
って、生きていくうえでは必須じゃないという時点で、ものすごく贅沢なエンターテイメントですよね。

「無駄を多分に含みつつ、あわいを生きていく」って、ものすごく最高な娯楽な気がします。

真剣に人生と向き合いながらも、葛藤や無駄を愛していきたい。

そんな風に思いながら、楽しく、そして真剣に数秘を通じて「あわい」を伝えていきますね。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。(急にかしこまる。笑)

リリ数秘術考案・講師。調和をベースにした数秘術・色彩心理・タロット講座を開講。セッションも行う。
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