人生が物語になるのか、物語に仕立ててしまうのか。「仏教思想のゼロポイント」より

人生は物語だなと常々感じているのだが(数秘5番)、

「物語になってしまう」のか「物語に仕立ててしまうのか」では、捉えかたが異なるなと感じている。

 

 

物語を生み出すように人生を創り上げられれば良いのだが、

物語にしようとすると、ストーリーにふさわしくない部分を見逃してしまうというか、抜け落ちたり、なかったことにしてしまう危険性がある。

 

 

これはセッションをしているときなどにも感じるのだが

語られる過去の記憶がどんどん改変されていくのはよくあることだ。

 

 

じゃあ、どうしたらよいのか?というヒントになるのが、

昨日こちらで紹介した「仏教世界のゼロポイント」に書かれている。

 

 

 

 だから私たちは、ただ継起しているだけの現象に欲望を抱き、それを好んだり嫌ったりする執著(嫌うこともまた、逆方向の執著の形である)をして、それを起点に物語を作る。欲望なしの認知であればただの「色」であるものが、欲望によって、「美しい顔」のイメージに形成しあげられてしまうわけだ。

そして、そのような欲望によって織り上げられた様々なイメージの中にあって、それらが「世界」という像を結ぶ際の焦点として機能するのは、もちろん「我」という仮象である。

五蘊も十二処も十八界も、それらが「私の」認知だと捉えられた時に、はじめて統合の中心を得て、「世界」という物語を形成する要素として機能する

六根六境が生成する個々の認知を、「それは私のものであり、それは私であって、それは私の我である」と捉えることがなかったならば、それらは統合の中心を失って、ただ継起していくだけになり、「世界」という像を結ぶことはない。

そこに残るのは、「ただ現象のみ」なのである。

魚川 祐司. 仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か― (p.113). 新潮社. Kindle 版.

(Kindleだと、引用のコピペが楽にできていいね…コピーに限度はあるようだけど)

 

「私」を認識するのは大事で、その「私とは何か」を認識するために
私の場合は、数秘や色やタロットが役に立つなと感じている。(特に数秘)

 

いったん「自分」を切り離して考えてみる、客観的に捉えてみるというステップは本当に重要で、
ある種の冷淡さのようなもの(自分を他者として見つめてみる)ことが
かなり役に立つのではないかと感じている。

 

これは今メルマガで書いている「境界線の話」にも通じる。

 

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境界線を設けるって、一見やはり冷たいように思われがちだが

知れば知るほど、境界線は愛情だなと感じるようになってきた。

 

 

 

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