「TARO賞の作家Ⅲ 境界を越えて」、1月14日までの開催に滑り込み。
まあまあ遠かったけど、行って良かった…!大充実
「境界を越えて」という企画展会場にたどり着く前に岡本太郎の常設展を見れるのだけれど、その岡本太郎のエネルギーに押されて「常識を超えていけ…ッ!」という妙なアドレナリンが出る。
「境界を越えて」は、TARO賞の受賞作家による選抜展ということで、境界をテーマにした作品を岡本太郎美術館でやるのはピッタリだなーと思った。
今回は、三名の受賞作家による展示が見れる。
(以下敬称略)
■ 内海 聖史
会場に入って正面を覆う、美の大きさに圧倒される。
<カーキな視界><dual>は三越のコンテンポラリーギャラリーで、<squid>はアートフロントギャラリーですでに見ていたのだけれど、展示方法が異なるのでまったく別作品に見えた。
場所が変わると見え方が変わるとはこういうことかー、と体感。
特に、イカのようにパネルが分割された作品・squidは前回異なる場所に設置されていたため、いっぺんに視界に入れられないことをもどかしく感じていた。それが今回は一体となった形で見られて嬉しい。
<遠くの絵画>は、漫画によくある「キラーンッ」っていうシンボルが絵になっている。
このキラーンが身体と関連しているとは知らなかった。
私はPowers of tenという映像作品がすごく好きで本も持っているのだが、とても遠くのものと近くのものが関連しているという考え方にとても共感する。
と、ここまで「これまで一目で視界に入れられなかったものを入れた満足感」を得られて進んだのだが、新作<そこにあるわけではない>を見て、「やっぱり見れないんかーい!」ってなった。
入れない部屋の中に、小さな絵画が散りばめられている。遠いし、こちら側は裏を向いているしで絵の面が良く見えない。
そこではじめて、「そっか、別に絵が描いてある面が表だとは誰も決めていないしな…」という感じで、無意識の思い込みに愕然とするのだった。
それまでは絵に没頭していていたのが、ここで急に「絵を見ている自分」に立ち返ってしまい、妙な気恥しさがある。
その気恥ずかしさをごまかすようにもう一周した。笑
長々と書いてしまったが、一緒に行った夫が「内海さんの作品って、やっぱり綺麗だよね」と言っていたので、あれこれ考えずにただその美しさを浴びるのもいいなと思った。
■大西康明
岡本太郎の作品…なのかな?と思う立体物(はっきり見えないので断定できない)が、しぼんではふくらむ半透明のビニールのなかにうっすらと見える。
天井からは、箒が吊るされている。
このポリエチレンのシートが境界を示すという見方、しぼんではふくらむシートが生き物のように見えるという見方もあるけれど…
私は、どんなに素晴らしい芸術作品でも、箒が近くにあって、半透明のシートをかぶせられることで、一見ごみのようにも見えてしまうことに怖さを感じた。
シートでくるまれているし、作品自体は汚れてもいないのに、隣接するものによって見え方が影響されてしまうのは恐ろしいことだ。(が、私たちは日常的にそういう先入観を持っている)
■若木くるみ
版画作品なのだが、「そんなやり方ってある!?」という斬新な手法に溢れていて、何度か声を出して笑ってしまった。
アスファルト、雪、樹、はたまた自分の後頭部。
すべてを版にしてしまうぶっ飛びっぷりが境界を越えている。
そして、どの作品もどことなくキュートで、つい微笑んでしまう。
いわゆる「見立て」のセンスと、実際にそれをやってしまう実行力がすごい。
あと、キャプションやパンフに、その愛すべきキャラクターがにじみ出ているので、すごく文才がおありなのだと思う。
版画エッセイなどを出版されたあかつきには読んでみたい!
私も頑張ろう、と元気をもらう展示だった。
数秘の視点
※これは私が、アートや本から得た体験から数秘視点の発見を得るもので、私見です。
境界を表す数秘は6番
境界にはあちらとこちらがあり、(明確な線とは限らないが)境界線がある。
何をこちらにして、何をあちらと定義するのか?
どんな価値感やルールを境界線として設けるのか?
その、線引きとなるものが6番の美学である。
境界は守るものでもあり、
窮屈なものでもあり、
反転すれば自分でもあり、
とび越えることで達成感を覚えたりもする。
今回の展示で言うと、内海聖史氏の<遠くの絵画>における「遠いけれど近い」「遠いものを探し求めていると自分の内側にそれはある」という感覚が、6番を理解するのにぴったりだな…と感じた。
6番の「宇宙」の理解を深めるには、POWERS OF TENの動画もオススメだ。